この記事は、慶應理工アドベントカレンダー2021の13日目の記事です。
こんにちは、Fastriver(@fastriver_org)です。
せっかくなので理工のアドベントカレンダーに参加させていただきました。
さて、理工学部にとってどのような年かご存知でしょうか。
なんと、1971年10月に矢上台で授業が開始されてからちょうど50年なんですね!!!!
理工学メディアセンターでは松下記念図書館50年の特集を行っているのですが理工学部ではとくに目立ったことはやっていないかな...?
というか理工学部として完全移転したのは1972年4月なので来年が50周年という感じなのでしょうか。
まあ細かいことはさておき節目の年なのでこの矢上キャンパスが50年どのように成長してきたのかを航空写真を交えながら見ていこうと思います。
航空写真サービスについて
過去の航空写真、昔はGoogle Earthで簡単に見られた気がするのですが、ブラウザ版になってから使い方がわからなくなりました。
他で航空写真をさかのぼって見られるサービスには以下のようなものがあります。
地理院地図
国土地理院が提供している地図サービスです。様々な地図を閲覧したり重ねて比較したりかなり多機能です。
地図・空中写真閲覧サービス
こちらも国土地理院の地図検索サービスです。航空写真の1枚1枚からアクセスできます。
スーパー地形
3D地図アプリ。複数のデータソースから得られた情報を見られますが、航空写真閲覧では地理院地図のラッパー的な立ち位置で利用できます。
矢上キャンパスの歴史
さて、古い順に見ていきましょう。
古代(~1939)
矢上台は中央上から右下に流れる矢上川の南部に位置した高台になります。左側日吉は第一校舎と第二校舎、グラウンドが見えます。この時期の矢上台は耕作地として使われていたようですね(高台で水はどうしていたんだろうか)。
ちなみに日吉と矢上の間の谷ですが、谷の中央に小さな川が流れていたらしいです(現在は暗渠になっている)。
藤原工業大学開設、土地の購入(1939~1940)
1939年に藤原工業大学が日吉台に開校、翌年1940年7月に矢上台の土地をキャンパス建設用地として購入しています。日吉と矢上の間の谷も藤原銀次郎が寄付していたということで、だいぶ大掛かりなキャンパスの構想が描かれていたことが伺えます。
ちなみに上の写真で矢上台の右下部分が削られていますが、これは1938年に義塾がそこで土取りをしたついでに観音松古墳の発掘調査をしたためと考えられます。
調査内容について詳しくは↓
現在該当部分は矢上小学校になっています。
ということで戦前の開校から既に矢上キャンパスの構想を持っていた藤原工業大学ですが、その後の戦争の激化により戦時中は日吉に学校を構えることになります。
写真の左下部分、今の第四校舎、第六校舎の辺りに校舎を持っていたようです。
幻のペーパープラン
戦前に藤原工業大学が描いていたキャンパスは「幻のペーパープラン」と呼ばれ上のような絵のようなものだったとされています。手前側が広大な庭園であることを考えると日吉キャンパスとシームレスに繋がったものを想定していたのでしょうか。
あと入り口の坂が少なそうでいいなぁ...
放置(~1967)
戦前は日吉に拠点を構えていた藤原工業大学ですが、1944年8月慶應義塾への寄付がなされ慶應義塾大学工学部へ変わりました。しかし戦後日吉キャンパスが米軍により接収されたことで拠点を失い、目黒・登戸・溝ノ口・小金井など転々としていくことになります。
その間矢上台は放置されていたのですが、ここに移転するだけの資金力がなかったためと考えられます。
日吉と矢上の間の谷の部分は戦時中耕作を許していたため、農地改革により失われたということです。
とはいってもずっと遊ばせていたわけではなく、西側は体育会のグラウンドとして利用されていました。上の写真では現塾生会館の裏の宅地の造成も始まった様子が見られます。
1963年には東海道新幹線のトンネルを作っている様子も見られます。なぜ理工キャンパスの地下に鉄道を許したのか、と思ったら順番が逆だったんですね。
また日吉では第四校舎や旧日吉記念館が既に見えます。
矢上移転(1967~1972)
しばらくは小金井キャンパスにいた工学部ですが、1967年11月にやっと矢上移転(日吉復帰?)が可決されます。
そして
1970年9月22日: 矢上キャンパス地鎮祭
1971年10月4日: 一部授業開始
同日: 松下記念図書館開館
1972年3月10日: 小金井からの移転完了
1972年3月27,28日: 新校舎落成披露
ということで矢上に移転しました。
移転初期の校舎の構成は
- 教室棟(12棟)
- 松下記念図書館(15棟)
- 旧厚生施設棟(16棟)
- 教育・研究実験棟本館(23,24,25棟)
- 教育・研究実験棟別館(33,34,35棟)
- 電気棟(31棟)
のようになっていました。12棟,15棟,23-25棟,35棟はまだ現役ですね。
矢上キャンパスを作る前、1969~1970年頃に日吉第六、七校舎も作られました。
拡張(~1973)
実験棟(32棟)と旧体育館、旧部室棟ができました。
あと1973年に遅れて東側グラウンドも整備されています。
厚生棟、昔は平屋だったんですね
数理工学科発足
数理工学科ができたので1975年に数理工学科棟(36棟, 現産学連携棟)が建ちました。
理工学部発足
1981年、工学部から理工学部に再編し、学科もいくつか増えたので
- 教室棟(11棟)
- 教育・研究実験本館(22棟)
の2棟が新たに作られました。
14棟がなかった頃は右手に図書館、左手に池がありました。
12棟は今の建物の他に東側に平屋の建物があり(現14棟西の位置)、そこは大講堂だったらしいです。
現26棟の土地は駐車場になっていました。
50周年事業
1989年に理工学部が50周年を迎えたので
- 総合科学研究センター棟(26棟)
- 厚生棟(16A棟)
- 課外活動棟(16B棟)
が建てられました。
組織改変
色々学部内を再編したり外部からの資金を注入したりして
- 分子・超分子・超構造体リサーチセンター棟(16D棟)
- 現体育館(27棟)
- 創想館(14棟)
が建てられました。
75周年事業
75周年ということで
が建てられました。
旧33棟と34棟は取り壊されました。
これで現在の矢上キャンパスの形ができました!
参考
- https://www.keio.ac.jp/ja/assets/download/about/learn-more/publications/juku/289/289_04.pdf
- 慶應義塾大学工学部「慶應義塾大学工学部三十五年史」(慶應義塾大学工学部, 1974年)
- 慶應義塾大学理工学部「慶應義塾大学理工学部五十年史」(慶應義塾大学理工学部, 1989年)
- 慶應義塾大学理工学部「慶應義塾大学理工学部75年史」(慶應義塾大学理工学部, 2014年)
- 国土地理院「地理院地図」
- 国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」